孫子の兵法

孫子兵法でパワハラを考える

2018-09-03

 体操、レスリング、ボクシング、バドミントン・・・と枚挙に暇がないほどスポーツの世界でパワハラが報道されている。急に増えたわけではなく、むしろ体罰などは以前と比べて減っているだろうから、表沙汰にする、もしくは表沙汰になる数が増えているのだろう。指導者側の保身のために選手を陥れるかのような所業は論外だが、選手のことを思うが故につい指導が行き過ぎ、言葉も荒くなってしまうことはあるのではないかと思ったりもする。
 それと同じことはビジネスの世界でも起こっているし、それで萎縮してしまって本来必要な部下指導も忌避しようとする上司が目につくのは残念なことだ。
 問題は、指導された本人が「愛のムチ」と受け止めるか「理不尽なパワハラ」と受け止めるかということだが、同じ言動でも、指導者と選手、上司と部下との関係性で意味合いが変わってくるところが難しい。
 実は、こうした点でも、孫子の教えが参考になる。孫子は行軍篇で、

『諄諄間間として、徐に人に言る者は、衆を失うなり。数々賞する者は、窘しむなり。数々罰する者は、困るるなり。先に暴にして後に其の衆を畏るる者は、不精の至りなり。』

 と指摘している。
 「上官が優しく丁寧な口調で兵士に話しかけているのは、上官への信頼を失い、兵士たちの心が離れてしまっているからである。頻繁に褒賞を与えるのは、士気の低下に苦しんで行き詰っているのである。やたらに懲罰を与えるのは、兵士が疲れて命令に従わなくなっているのである。はじめは、粗暴に扱っておきながら、後になって兵士たちの離反や反抗を恐れているようでは、部下を使う配慮がないことこの上ない。」という意味だ。
 ここで面白いのは、優しく丁寧に部下に接したり褒めたりするのは、部下から上司への信頼の欠如の現れであり、上司が部下に罰を与えるのは、部下が上司の言うことを聞かないことへの上司側の焦りや恐れがあるからだという指摘だ。
 選手や部下に優しく接しているから良いわけではなく、ただ遠慮して言うべきことを言えなくなっているだけだとしたら何の意味もない。パワハラだと言われるのを恐れて、指導すべきことを指導できないなら、選手や部下の側にもマイナスだ。
 選手や部下が言うことを聞かないからと感情的になって言葉で脅し、場合によっては体罰を下すような指導者も何だか情けない。自分の感情をコントロールできず、暴言を吐いたりしておいて、後になって訴えられるのではないかとビビっているようでは話にならない。
 要は、表面的な言動よりもそもそもの関係性、信頼関係が出来ているのかどうかが重要なのであって、教科書的に「パワハラNGワード」などを覚えて、それを避けるだけといったテクニカルな対応では、それもまた見透かされて逆効果ということになるだろう。
 だから孫子は、こうも言っている。

『卒、未だ親附せざるに、而も之を罰すれば、則ち服せず。服せざれば則ち用い難きなり。卒、已に親附せるに、而も罰行われざれば、則ち用う可からざるなり。故に、之を合するに文を以てし、之を斉うるに武を以てす。是を必取と謂う。』

 「兵士たちがまだ将軍に対して親しみや忠誠心を持ってもいないのに、彼らを罰したりすれば、将軍の命令に従わなくなる。心服して命令に従ってくれなければ軍隊を統率することはできない。反対に、兵士たちが既に将軍に対して心服しているのに、厳正な処罰が行われないようであれば、軍隊としての用をなさない。だから、兵士たちの心をまとめるのに、思いやりをもって交わり、厳正な規律をもって接していくことが必要である。これを目標必達の方法と言うのだ。」という意味である。
 信頼関係もなく、指導者や上司に対して心服してもないのに、厳しい指導をしてしまってはパワハラ確定だ。だが、選手や部下が信頼して指導を求めてくれているのに、耳の痛い、シビアな指摘も出来ないようでは、やはり本物の指導者とは言えない。
 普段からの関係性が重要なわけだが、その時は関係が良くて受け入れていても、後に関係が崩れてしまって、遡って、「あの時も・・・」とやられる可能性もあるので、指導者や上司は気をつけておかなければならない。それなら「やっぱり、何も言わない方が良い」と考えてしまいそうになるが、2500年前の孫子の時代からこうした指摘があるということは、人を動かすためには避けて通れない課題だと腹をくくるしかないだろう。
 人の上に立ち、組織を動かす立場になったら、孫子の兵法を学ぼう。

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