長尾一洋オフィシャルサイト

ブログではない雑記

ブログではない雑記について・・・
何年も前から、ブログを書け、ブログでアクセスを増やせ、と色々な人に言われてきたが、私にはブログを書く勇気がない。
何しろあのコメントとかトラックバックというのが怖い。
何を書かれるのか、どんな反応が返ってくるのかと考えるだけで胃が痛む。
ということなので、これはブログではなくただの雑記である。コメントもトラックバックもなく、ただ私の思いを書きつのるだけ。
ご容赦下さい。
異論、反論がある方もいらっしゃるでしょう。その場合は黙ってこのサイトから離脱していただいて結構です。
不愉快な思いをさせて申し訳ありませんでした。

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同意、賛成、アドバイスなど前向きなご意見をお持ちの方は、是非私を勇気付けて欲しいのでメールを下さい。
私は職業柄、セミナー講師をやったりするので、そこでアンケートを書いてもらうのだが、たまにいただく厳しいご指摘は私の心を著しく傷つけます。
自慢ではないですが、通常はほぼ9割9分が「参考になった」「大変参考になった」とお答えいただきます。それでまぁ確かに自信過剰になっていたりする
部分もあると思います。そこに厳しいご指摘が書かれると、めったにないことだけに心が受け止め切れません。しかしセミナーのアンケートはプロとしてお金をもらった上でのことだから、甘んじて受け容れ、改善しようと努力する。
しかし無料で書いたブログに厳しいご意見があるのは、辛いです。耐える根拠を見つけることができないのです。お許しを。

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最近の雑記
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ユニコーン再結成【前編】

2009-02-26

 ユニコーンが再結成したということで、最近テレビにもよく登場する。「シャンブル」というアルバムはなんと、オリコンの1位になったそうだ。再結成でいきなり1位をとったのは「かぐや姫」以来だと。そんなに人気があったのか?すごいな。実はユニコーンのベーシスト、EBI君は高校時代のバンド仲間だ。同級生が活躍しているのを見るとこちらまで嬉しくなる。ユニコーンのファンではないが、心の中で応援している。今回の再結成で、いよいよリアルに応援しようと思って、地元広島のこれまたバンド仲間がコンサートのチケットを手配しようとしたのだが、大人気でとれなかったらしい・・・。本人に頼んでも無理だった。93年に解散しているから、16年ぶりか。待っていたファンがたくさんいるんだろうな。
 思い返せば、大学4年生の時だったかな、「堀内(EBI)がデビューするらしいぞ」と友達がマスコミ向けらしいデモテープをくれた。デビュー前に作って配っていたのだろうが、当時はカセットテープだった。「えぇ~~!?」とかなりビックリした。何しろ、彼にベースを教えたのは俺だ。高校1年の時だったと思うが、バンドをやろうということになって、ベースがいないので、EBI(当時はサメと呼ばれていたが)にお鉢が回った。ちょうど友達からもらったベースを持っていたので、それを貸した。ちょっとネックが反った古いベースだったが、彼が最初にベースに触ったのは間違いなくそのベースである。最初のバンドは、BOSTONとか浜田省吾とか脈絡のないコピーバンドだったが、広島のフラワーフェスティバルという祭りに出た。その後そのバンドは解散して、EBI(当時はサメ)とARBのコピーバンドをやった。彼と2つのバンドをやったのは俺だけだ(自慢!)。その割にはあまり仲良くはないが、ベースを教えたことも2つのバンドで一緒だったことも事実である。
 そ、そのEBI(サメ)がデビュー???それもCBSソニーからだと。メジャーじゃないか。大学に行ってもバンドをやっていたのは知っていたのだが、まさかメジャーデビューするとは・・・。正直ビックリした。もらったデモテープに入っていたMaybe Blueという曲はなかなかカッコよかった。何度も聴いて覚えていたので、ユニコーン解散後に、カラオケでEBIとハモッたこともある。飲み屋のおネェちゃんにメッチャ受けた。その時も「俺がこいつにベースを教えた」と散々自慢した(笑)。
 ユニコーンは93年に解散。奥田民生は有名だしパフィーのプロデュースとかもしていて羽振りが良さそうだったが、EBIは大丈夫かな?ちゃんと食っていけるのか?と心配した。ちなみに、うちの奥様は奥田民生と高校の同級生だった。ユニコーンは色々とご縁のあるバンドである。
 93年の解散後、ソロでアルバムを出したりしていたEBIが、98年に再結成したARBに参加した。ARBのコピーバンドをやっていた人間がそのバンドに入ってしまった・・・。これまたビックリだったが、ARBはリアルにファンなので、これはとても嬉しかった。そもそも本名、堀内一史君がEBIと呼ばれているのは、ARBファンだった彼が、いつも「ARBARB」と言っていたので「ARB」と呼ばれるようになり、それが短縮されてEBIになったという。ARBの短縮ならEBIではなくABと書いて「エビ」でも良かったのではないかと思うが、高校時代の「サメ」が「エビ」になり、その由縁となったARBに「エビ」が入ったわけだから、話は尽きない・・・。長くなりそうなので、今回はこれくらいで。つづく・・・


夜の散歩

2009-02-18

 寂しい時、悲しい時、情けない時、はたまた何故か元気が有り余っている時、変に張り切って前向きな時、ふと思い立って夜の散歩に出掛けることがある。全身をadidasのウェアで固めて芝公園から増上寺あたりを歩く。東京タワーが間近に見えて、広島生まれ広島育ちの田舎者としては、東京で生きてる!都会にいる!という気分になれて多少テンションが上がる。時間はだいたい23時前後が多い。30分から1時間くらいその日の気分で歩く。運動不足解消にもなっていい。ふと気が向くと東京タワーに更に近づきたくなって真下まで行ってみたりする。

真下から見上げた夜の東京タワー

真下から見上げた夜の東京タワー。携帯電話で撮ってみる。
なかなか綺麗だ。また少々テンションが上がる。
 だが、大都会東京の象徴とも言えるような東京タワーの真下を夜中にトボトボ歩いて携帯で撮影しているちっぽけな自分にガッカリしてみたりもする。小さい。かなり小さい。
 東京タワーの周辺で、夜中に全身adidasファッションで歩く小さな男を見かけたらきっと私です。声はかけなくていいです。そっとしておいて下さい。夜中だしね。


札幌に出張

2009-02-16

 札幌でセミナー講演の仕事があったのだが、その日はちょうどサッポロ雪まつり。おまけにセミナー会場は大通り公園からすぐ近く。これは行くしかないか。行ったことないしな。滅多にこんな季節に札幌に来ないだろうしな。でも寒いから歩いて行くのはイヤだな・・・。革靴だし・・・。悩む。
 札幌駅から会場まで乗ったタクシーで「雪まつりの雪像は、車の中から見えないのかな?」と聞いてみると、「最近は中を歩かないと見えないようになってるよ」だと。「いろいろグッズとか売っているからねぇ~。あっちがメインなんじゃないの」だって。なんだよ、仕方ねーな。歩いて行ってみるかな。その日は札幌にしては暖かくて3月くらいの陽気だと言うし。それでも寒いけど・・・。セミナーで熱弁を奮って汗をかくほど身体を温めたところでGO!ツルツル滑りながらササッと10分ほど見学。

浜松城

 テレビのニュースなんかで見ていると巨大な雪像が並んでいる感じがしていたが、そうでもないかな。見た中で一番大きかったのが、「浜松城」。なぜ浜松城が札幌にあるのかは不明。何か因縁があるのかな。

ドラえもん

 どこにでも出てくるドラえもんもいた。なんだか雪まつりのイメージが崩れる。しかし、ドラえもん恐るべし。どこにでもいる。「どこでもドア」を持っているからか?

干支の牛と牛乳パック

 干支の牛と牛乳パックだって。北海道っぽいと言えばまぁそうかな。こんな感じで小さい雪像が多い。地域のグループとかが参加して作っているのか。今年は雪が少なくて大変だったというから、小さめなのかはよく分からないが、思ったよりは小ぶりなものが多かった。
 世相を表したもので目に付いたのがこれ。

石川遼君

 石川遼君17歳。高校生にして1億円プレイヤー。マスターズにも参加。写真は少々ピンぼけ。携帯カメラだから已む無し。似ているようなそうでもないような・・・。ドラえもんよりはいいと思う。頑張れ遼君。アメリカでも活躍してくれ。1億円プレイヤーを応援している場合ではない。こっちが応援して欲しい。
 時間もないし、やっぱり寒いので、1ブロックくらい歩いて退散。新千歳空港へと急ぐ。出張と言っても朝移動で羽田から飛んで、空港で大しておいしくもないのに高いサッポロラーメンを食べて、札幌市内のホテルに駆け込んで、セミナー90分喋って、トンボ帰り。19時半には羽田に着いてたから、出張なのか、ちょっとした遠出なのか、言い方が難しいが、雪まつりを見たし、遠いことは間違いないから出張ということにしておこう。そんなことはどうでもいいが、今度は福岡出張で博多ラーメンのことでも書くかな。出張するとラーメンばかり食っている・・・。ような気がする。


Honda「S2000」生産終了

2009-02-09

 ホンダよ、待ってくれ!F1撤退、鈴鹿8時間耐久レースからも撤退、ハンドボールの日本リーグからも撤退・・・ってそんなに厳しいのか?と思っていたら、なんと我が愛車「S2000」が生産中止だと。今年の6月末で生産終了なんだと。レースの撤退も本田宗一郎氏の魂を悲しませているだろうが、S500から続くホンダのスポーツカー魂はどうなってしまうのか?オープン2シーターの名車が消えてしまっていいのか?本田宗一郎氏は、天国で何と言っているだろうか。

S2000

 9年間乗ってきた愛車S2000。正直なところ飽きてきたし、そろそろ買い換えようかな、でも欲しい車もないし、やっぱりエスがカッコいいしな、と思っていたら生産中止。なんだかもったいなくて買い換えられなくなった。乗れるところまで乗るか・・・。
 S2000の登場は1999年である。出た瞬間に(初めてCMだったか雑誌だったかを見た瞬間に)惚れた。カッコいい、美しい、そしてオープン。S500、S600、S800と受け継がれたホンダスポーツカーの系譜。欲しい。乗りたい。車好きでも、走り屋でも、族上がりでもないが、このビューティフルな車に乗りたい。ポルシェのボクスターよりBMWのZ3より美しい。マツダのロードスターはライバルとも言えない。似た車だがカッコよさが違う。そして欲しい欲しいと思いつつ、新型車の初期不良は避けたいなと思いながら、やっぱりS2000だから2000年に買うしかないと変な理屈をつけて我慢しつつ、ついに2000年2月に手に入れた。
 高出力4気筒自然吸気エンジンを搭載、50:50の理想的な車体前後重量配分を実現したFRのリアルオープンスポーツカー。6速マニュアルシフト。F1ぽいエンジンスタートボタン。デジタルスピードメーター。当時の排出ガス規制値を50パーセント以上下回る排出ガスレベル、新開発オープンボディ骨格構造を採用、クローズドボディ並みのボディ剛性を実現し、環境への配慮と世界最高水準の衝突安全性も兼ね備える。カッコいいだけじゃない、中身もいい。実際乗ると、5000回転から6000回転を過ぎるあたりから、クィーーーーーーーン!!と一気に吹き上がるエンジンが最高。さすがF1のホンダ!ボディーカラーは黒。それでシートカラーは赤。黒と赤の絶妙な配色。これまたサイコー!!オープンにしてARBの「BLACK&RED」を聴きながら風を感じる。

S2000

 あれから9年。ちょうど4回目の車検から帰ってきた俺のS2000。生産中止になったことでより一層愛おしく思う。たった1万500キロしか走ってないけど・・・。9年間だから月に平均100キロほどしか走ってない。マニュアルだから渋滞していると疲れるんだよね・・・。最近は自転車に乗ることが多いし・・・。あんまり乗らないから昨年末にはバッテリーが上がって立体駐車場から出せなくなって困った。でも、たまに乗ると気分がいい。手放せない。
 思えば、俺はホンダフリークかもしれない。社会人一年生の時に最初に買った車は軽のトゥデイ(Today)だ。これもマニュアル車だったけどよく走った。営業車として使っていたから結構乗った。次にシビック (CIVIC) のセダンに乗り換えた。この時もボディーカラーは黒だった。今思えばシビックなのにセダンという微妙な車だったが初オートマだったので出世した気分だった。普通車だし。4ドアだったし。その後他社の車に浮気をしたが、軽のオープン2シーター、ビート (BEAT) にも乗っていた。これもなかなか面白い車だった。赤いボディーで激走すると、車速に応じて音量を調整する「スカイサウンドシステム」なるものを備えていて、ボリュームが上がるのが楽しかった。これはS2000にもつけてくれたら良かったのに・・・。
 ちなみにうちの奥様も以前トゥデイに乗っていたし、今はストリーム(Stream)に乗っていて、ハイブリッドの新型インサイトに買い換えようかとか言っている。ホンダフリークだなこりゃ。
 そんなお世話になっている(買ってあげているとも言えるが)ホンダが危機なのは悲しいことだ。インサイトを買ってあげた方がいいかな。それは俺にはどうでもいいけど、S2000が生産中止になってしまうのは寂し過ぎる。我が愛車S2000にあと何年乗れるか分からないが、その時までに「S-VOLT」(Sの電気自動車バージョン)を是非発売して欲しい。電気自動車のスポーツカーって「ウィ~~ン」とか言って走るのかな。ちょっと気分が出ないか・・・。自動車業界の皆さんにお願い。エコロジーな世の中になってもオープン2シーターは無くさないで欲しい。


コンサルタント養成塾

2009-02-02

 経済危機が叫ばれ、連日大企業の大規模リストラや赤字決算予想について報道がなされている。その影(裏)にはさらに多くの中堅・中小企業のリストラや破綻や赤字がある。「100年に一度の危機だ」と言うけれども、少なくとも日本国内ではこれからずっと人口減少のマーケット縮小が続くわけで、大恐慌時代よりも環境は厳しい。ちょっと人を減らせば批判されるほど労働者保護法制も厳しくなっているし、地球環境にも配慮しなければならない。何年かじっと我慢して耐えていればその内なんとかなるというようなものではないだろう。
 20年近く前になるバブル崩壊も経験したが、あの時よりも落ち込みが急激だ。バブル崩壊の時は厳しいと言いながらも良い部分もあり、すぐにまた好景気が戻ってくるような微妙な期待感すらあった。何より外需があったから、国内が資産デフレで苦しい時にも自動車や電機などが引っ張ってくれた。ITブームなんかもあったし、何より、まだ人口も増えていた。今とは明らかに違う。
 こうした環境下においてこそ、経営コンサルタントには出番がやってくる。まずは営業力強化。客先が増えなければ苦しい。次に将来ビジョン。先が見えないと踏ん張れない。そしてIT活用で生産性向上。資金繰りも大切だが、そればかりでは構造的なマーケット縮小を乗り切れない。
 そのためには、コンサルタントがいる。使える奴が。役に立つコンサルタントが必要だ。コンサルタントの養成が急務である。ということで、今年から月に一回、コンサルタント養成塾を開催することにした。やる気のない人間に無理矢理教えても時間の無駄だから、業務外の土曜日で、自主参加だ。授業料は取らないが交通費なども自腹。こっちも身を削り身銭を切ってやるから、受講者にも身を削ってもらう。その覚悟を示すため、ちょっと恥ずかしいが「長尾塾」と命名した。
 散々、やる気がない奴は来るな、自費参加だぞ、とプレッシャーをかけて参加者を募集したので、まぁ10人くらいかなと思っていたら20名を越える応募があった。込み入った暗黙知を伝えるにはちょっと多過ぎるので20名弱まで絞って受付ストップ。北海道や東北、関西方面からも自費で参加する人がいる。身銭を切って休日にも学ぶ気のある人がいてくれることは嬉しい限り。身銭を切らせる以上、こちらもそれ相応の価値を提供してあげなければならないというプレッシャーがかかる。
 昨年末から準備して、何とか第一講が終了。どれだけ伝わったか分からないが、これまで20数年やってきたコンサルティングの微妙な温度感まで伝えられればと思う。理想は「松下村塾」だ。松下村塾は言わずと知れた、山口の萩にあった吉田松陰の私塾だが、納屋を改修しただけの小さな小屋で、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など多くの幕末の志士を生んだ。それも松陰が実際に指導したのは、安政3年(1856年)8月から安政5年(1858年)12月までのわずか2年余りに過ぎないと言う。短時間でも教える者、学ぶ者がお互いに真剣に当たれば、大きな成果を生むわけだ。
 日本の21世紀は、人口減少の厳しい世紀だ。今は黒船来航、倒幕、明治維新以上の動乱期とも言える。急激な景気低迷、業績悪化に喘ぐ企業のために少しでもお役に立てる人材を輩出したい。2月末の第二講に向けて準備開始だ。
 ちなみに、「塾訓」も制定した。(形から入るのはコンサルタントの性かもしれない・・・笑)紹介しておこう。

長尾塾 「塾訓」
一、 日本企業を元気にし、そこで働く人たちを幸福に導く使命と責任を果たす

一、 上司・部下、社長・社員、年長・年少の壁を越え、己の本心・本音をぶつけ合う

一、 共に学び、共に語り、共に実践する同志であり、我以外皆我が師として接する

一、 金銭的見返りを求めず、与えず、法的な制約にも縛られない自主自律の場とする

一、 本気で学ぶ気の無い者、与えられるのを待つだけの者は去れ

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